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京王電鉄50年史

第2部 京王圏の拡大と圏外への進出(1969〜1986)

第2章 自動車事業の効率化

3 観光バスと高速バスの展開

 路線バスの合理化が進展する一方で、観光バスや長距離バスの事業を強化しました。1965(昭40)年、観光バスにデラックスバスを増備し、新規コースを開拓したほか、1970年の大阪万国博覧会の際には、延べ480両、約2万人のお客様を輸送しました。

中央自動車道を走る中央高速バス

中央自動車道を走る中央高速バス

 一方、長距離路線バスについては、それまで行楽シーズンのみ運行していた新宿〜河口湖・山中湖線を1965年7月から毎日運行にしたほか、67年には本栖湖系統も開業、さらに69年に中央自動車道が河口湖まで開通したのに合わせ中央道経由に切り替えて、新宿〜河口湖間の所要時分は50分短縮されて2時間10分となり、名称も「中央高速バス」と改めました。

 高速バスは、その後一層営業基盤を固め、1971年4月には新宿高速バスターミナルが完成しサービス向上を図った他、74年にワンマン化を実施しました。1976年5月には、首都高速道路と中央道がつながり、新宿〜河口湖間の所要時分は1時間40分となり、中央高速バスは本格的な高速バスとなりました。

 1978年4月、甲府線(新宿〜甲府)が開業しました。これは、前年に中央道大月〜勝沼間が開通したため、従来の急行バスを中央道経由に乗せ替えて本数を増強し、所要時分を2時間10分に短縮させたものです。本数も6本から最盛期には30本まで増強され、甲府線は都市間高速バスとしての利便性を整えました。

 1982年中央道が全通し、新宿と関西地方が中央道経由で結ばれました。

 このころ、長野県伊那地方から高速バス運行の要請があり、1984年12月、伊那・飯田線が開業しました。これは交通不便な地方都市と東京を結ぶ路線の可能性を実現したことに大きな意義があり、その後全国的に大都市と地方都市を結ぶ路線の開業が相次ぎ、高速バス新時代が到来しました。

伊那・飯田線の開業により、高速バスは長野県内に進出しました。

伊那・飯田線の開業により、高速バスは長野県内に進出しました。
1984(昭59)年

 その後、1986年11月に中央道茅野へ、翌87年これを延長する形で、諏訪・岡谷線が開業しました。

 なお、中央高速バスの利用者増大に対応するため、1980年に従来手作業で行っていた予約発券業務をコンピュータ化した、高速バス座席予約システムS.R.S.80を導入しました。これにより共同運行する他社便を含めて電話予約が可能になるなど、高速バスの営業戦略に大いに貢献しました。

 一方、貸切事業については、1975年頃から、マイカー利用増・旅行の小グループ化・海外旅行の普及・低人件費の貸切バス業者との競合など、競争激化と構造的な収支悪化に悩まされるようになりました。そこで1980年に貸切バスの再編に取り組み、82年に観光バス乗務員の労働条件改定を実施しました。

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