第2部 京王圏の拡大と圏外への進出 1969~1986

第1章 伸びゆく路線と安全対策

1960年代に実施した京王線併用軌道の地下化・昇圧・特急運転の開始など近代化のための諸施策により、1970年以降に京王沿線の開発が促進され、輸送需要が急増しました。これに対応するための輸送力増強と合わせ、安全対策や保安度向上に対する対策も進められていきました。

運転保安度向上への取り組み

京王沿線の発展に伴い、輸送量も運転速度も桁違いに大きくなりました。これにより当社に課せられる責任も大きくなり、安全性・正確性が重視されるようになりました。このことにより運転保安度の向上・軌道強化・電力設備の増強・新型高性能車両の増備が進んだ結果、1971年4月のダイヤ改正で京王線の特急は最高時速105キロ・新宿~京王八王子間を35分で結ぶようになりました。

まず、運転保安度向上対策のひとつとして、踏切解消のための立体化工事が進められました。1967年に開通した高尾線は、踏切1ヵ所以外すべて立体交差で造られました。翌68年から74年にかけて、京王多摩川駅、聖蹟桜ヶ丘駅、環状八号線と交差する八幡山駅・高井戸駅、鎌倉街道と交差する中河原駅を高架立体化しました。さらに1980年代になると、駅構内の旅客通路(構内踏切)をなくすため、多くの駅で地下通路の設置を進めました。

つぎに、輸送需要の増加による対応として軌道設備の強化が実施されました。具体的には重軌条化(37キロレール→50キロ)、PC枕木化(木製→コンクリート)、ロングレール化、道床強化などが挙げられます。

また、保線作業の機械化を進め、1967年にマルチプルタイタンパーを導入したほか、軌道モーターカー、ダンプトロなどを順次導入し、作業効率の向上を図りました。1967年9月には電力指令制度が発足しました。これにより、全線8ヵ所(当時)の変電所を無人化し、集中制御化することで、電力運用の合理化と保安度向上を図りました。

一方、ATS(自動列車停止装置)については、1969年6月に全線・全車両に設置を完了しました。続いて運行管理業務をコンピュータに置き換えて、駅で行っていたポイント操作や案内放送を取り込んだTTC(列車運行管理システム)を1970年6月に井の頭線に導入、75年11月には京王線にも導入しました。

さらに、踏切保安整備の向上を進め、1980年に全ての踏切に遮断機と警報機の設置を完了したほか、踏切の統廃合の結果、65年の320ヵ所が97年には157ヵ所と大幅に減少しました。

ところで、井の頭線については車両の増加によりそれまでの永福町車両基地が手狭となったため、1966年4月に富士見ヶ丘に検車施設が完成、続いて70年4月に富士見ヶ丘車両工場が完成しました。翌71年12月に、永福町駅に待避線を設けて、渋谷~吉祥寺間を17分で結ぶ急行の運転を開始しました。また、この年に5両編成が登場し、78年には全列車を5両編成化しました。

  • 井の頭線では急行運転を開始しました。1971年

相模原線の進展

1966年10月、多摩ニュータウンを縦貫する相模原線の建設が始まりました。多摩ニュータウンは、東西14キロ・南北2~4キロの細長い形状で、八王子・町田・多摩・稲城の4市にまたがる南多摩丘陵一帯に位置し、計画人口は30万人、1965年12月に都市計画決定され、翌66年から開発に着手しました。

建設工事は、第1期区間として京王多摩川~稲城中央(現稲城)間から始まり、1971年4月に京王多摩川~京王よみうりランド間が開通しました。

さらに第2期区間の工事も進捗し、1974年10月に京王よみうりランド~京王多摩センター間が開通し、多摩ニュータウンへの乗り入れが実現しました。この時、快速が新宿~京王多摩センター間で運転を開始し、利便性は格段に向上しました。

1983年3月には、多摩ニュータウン西部地区にも入居が始まり、相模原線についても、82年12月に京王多摩センター~橋本間の建設に着手しました。

  • 京王多摩センター行き祝賀列車(京王よみうりランド駅)1974年

京王新線開通と複々線化

1978年10月、新宿駅の地下30メートルに京王新線新宿駅が開業し、同時に新宿~笹塚間が複々線化されました。同区間の複々線化については、1966年に申請をし、71年から本格的着工を開始しました。この間、オイルショックによる工事費高騰などの労苦を経て、ようやく開通にこぎつけました。この結果、新宿~初台間の最混雑率は196%(1977年)から155%に緩和されました。

そして、1980年3月に都営地下鉄新宿線の、新宿~岩本町間が開通し、新線新宿駅で京王線とつながり、相互直通運転を開始しました。このことにより、京王線が都心に直結し、首都圏交通の大動脈の一翼を担うことになりました。

  • 都営地下鉄新宿線の延伸開業により、京王線は岩本町まで直通運転を開始しました。(都営新宿線市ヶ谷駅)1980年3月

長編成化への取り組み

京王線は1963年に6両、68年に7両編成を運行させていましたが、さらなる輸送力増強が求められていました。しかし、新宿駅のホーム延伸が容易でなく、それまで4本あった線路の1本を閉鎖するなどにより、1975年10月に8両編成化を実施しました。
一方、1972年に京王線で初の20メートル・4扉車両6000系が入線し、車両自体の大型化により輸送力を増強しました。
これにより、急行系列車は20メートル車の8両編成で運行されるようになりましたが、高まる輸送需要への輸送力増強対策として、急行系列車の10両編成化に着手しました。しかし、駅周辺での用地取得の難航など、苦労も多くありました。特に新宿駅については、交差渡り線の移設・これに伴う勾配の変更などの難工事となり、着工から3年後の1982年10月に10両編成化工事が完了し、11月から一部の急行系列車の10両編成化が実現しました。なお、京王多摩センター~都営新宿線岩本町間の通勤快速については、一足早く1981年9月に10両編成運転を実施しています。
1984年になると、普通列車のサービスアップを目的にステンレスカー7000系車両が登湯しました。これにより、京王線からグリーン塗色の車両が姿を消しました。なお、この年井の頭線も3000系車両に統一され、グリーンの車両は全廃となっています。

  • 新宿駅10編成化工事

鉄道部門の省力化

1970年代に入ると、大規模投資により資本費が増加していたため、経費節減を図るため、特に駅業務において機械化による省力化が顕著に実施されました。自動券売機については1953年に初めて導入されましたが、74年に全窓口の自動化が完了しました。定期券発売については、1975年に主要11駅に定期券発行機を設置し、発売業務を集約化しました。

一方、輸送力増強に伴う車両数増加のため、桜上水工場の処理能力が限界となったことから、若葉台に車両工場を建設し、1983年に稼動を開始しました。

  • 1983年に業務を開始した若葉台車両工場

第2章 自動車事業の効率化

1965年から10年の間に自家用車数が4倍の伸びを示すなど、渋滞による道路交通事情の悪化により、路線バスを取り巻く状況はますます厳しいものになっていきました。

バスの体質改善

都区内地区では、路線の廃止や運行回数の減回など再編成を行うと同時に、営業所の統廃合を実施しました。これにより、都区内の路線は1975年9月までに中野と永福町の2営業所となりました。一方、多摩地区では増大する輸送量に対応するため、営業所の新設を含む再編成を実施しました。
1960年に始まったワンマン化については、都区内地区では72年7月、多摩地区でも76年4月に完了、63年には853人もいた車掌がすべていなくなりました。
その他観光バス事業で業務組織を変更し、1973年3月に観光バスセンターを設置しました。また、車両整備部門についても、1972年3月に永福町工場を「中央工場」として営業所から独立させ、整備関係業務の集約化・効率化を図る一方、75年からは路線バスの塗色を変更し、塗装の簡略化を実施しました。

「バス離れ」への対策

マイカーの急速な普及により交通渋滞が発生し、バス運行の乱れが起こるようになると、近距離利用者の「バス離れ」となって収益が悪化しました。こうした状況のなか「バスの復権」を目指して、1970年以来「乗りやすく信頼されるバスに」をスローガンにサービス強化運動を展開しました。
その一環として、1970年12月にわが国初の大型3ドアワンマンカーを導入し、輸送力を増強しました。また、1976年に路線バスでは都内初の冷房車を運行させました。この他、バス専用レーン・バス停のあんどん型ポールの採用や上屋の設置・バスの接近を知らせるバスロケーションシステムの導入などの施策に取り組みました。
また、1980年4月には、都市生活のニーズによる深夜帰宅対策として、「深夜バス」の運行を開始したほか、10月には早朝の利用促進対策として、始発時刻を15~30分繰り上げました。

  • 道路渋滞に苦しむ路線バス

観光バスと高速バスの展開

路線バスの合理化が進展する一方で、観光バスや長距離バスの事業を強化しました。1965年、観光バスにデラックスバスを増備し、新規コースを開拓したほか、1970年の大阪万国博覧会の際には、延べ480両、約2万人のお客さまを輸送しました。
一方、長距離路線バスについては、それまで行楽シーズンのみ運行していた新宿~河口湖・山中湖線を1965年7月から毎日運行にしたほか、67年には本栖湖系統も開業、さらに69年に中央自動車道が河口湖まで開通したのに合わせ中央道経由に切り替えて、新宿~河口湖間の所要時分は50分短縮されて2時間10分となり、名称も「中央高速バス」と改めました。
高速バスは、その後一層営業基盤を固め、1971年4月には新宿高速バスターミナルが完成しサービス向上を図った他、74年にワンマン化を実施しました。1976年5月には、首都高速道路と中央道がつながり、新宿~河口湖間の所要時分は1時間40分となり、中央高速バスは本格的な高速バスとなりました。
1978年4月、甲府線(新宿~甲府)が開業しました。これは、前年に中央道大月~勝沼間が開通したため、従来の急行バスを中央道経由に乗せ替えて本数を増強し、所要時分を2時間10分に短縮させたものです。本数も6本から最盛期には30本まで増強され、甲府線は都市間高速バスとしての利便性を整えました。
1982年中央道が全通し、新宿と関西地方が中央道経由で結ばれました。
このころ、長野県伊那地方から高速バス運行の要請があり、1984年12月、伊那・飯田線が開業しました。これは交通不便な地方都市と東京を結ぶ路線の可能性を実現したことに大きな意義があり、その後全国的に大都市と地方都市を結ぶ路線の開業が相次ぎ、高速バス新時代が到来しました。
その後、1986年11月に中央道茅野へ、翌87年これを延長する形で、諏訪・岡谷線が開業しました。
なお、中央高速バスの利用者増大に対応するため、1980年に従来手作業で行っていた予約発券業務をコンピュータ化した、高速バス座席予約システムS.R.S.80を導入しました。これにより共同運行する他社便を含めて電話予約が可能になるなど、高速バスの営業戦略に大いに貢献しました。
一方、貸切事業については、1975年頃から、マイカー利用増・旅行の小グループ化・海外旅行の普及・低人件費の貸切バス業者との競合など、競争激化と構造的な収支悪化に悩まされるようになりました。そこで1980年に貸切バスの再編に取り組み、82年に観光バス乗務員の労働条件改定を実施しました。

  • 中央自動車道を走る中央高速バス
  • 伊那・飯田線の開業により、高速バスは長野県内に進出しました。1984年

新しい需要への対応

既存路線のバス離れが深刻化する一方で、多摩地区では1971年の諏訪・永山地区に始まる多摩ニュータウンの開発によるバス輸送が大きな新規需要となり、83年入居開始の南大沢団地に至るまで、次々に輸送を開始しました。
また、多摩ニュータウン等の輸送増に合わせ、1983年7月に桜ヶ丘営業所の出先車庫として多摩車庫を開設し、翌84年4月には、これを多摩営業所に昇格させました。
一方、1986年8月に、日野市で29人乗りのミニバスの運行を開始しました。このミニバスは、市役所や市内の駅を結んでいるため好評を博し、その後日野市の路線網を拡充した他、府中市・多摩市でのミニバス開設につながりました。

  • 多摩ニュータウン内に開設された多摩営業所

システム化による効率化の推進

バス事業は経費に対する人件費比率が高い体質のため、さらなる人件費削減に取り組む必要がありました。
その一つとして、1984年に路線バスダイヤ改正システムを導入し、運行図表や時刻表の作成などの作業効率を大きく改善しました。
また、1986年に整備業務のシステム化を実施しました。これは、部品在庫の適正化と計画的な部品交換・管理を目的としたもので、作業時間の効率化と要員の削減を実現しました。なお、1985年に中央工場は永福町から多摩営業所構内に移転し、さらに87年には「車両整備工場」と組織変更しました。

第3章 開発事業部門の拡充

土地投機による地価の高騰現象は、1973年以降の土地分譲・開発に対する法的規制の強化に加えて、オイルショックとその後の不況が重なり、一転して土地取引が停滞するようになっていました。

不動産事業の新たな展開

不動産事業は、様々な要因からそれまでの大規模な宅地開発の用地取得は困難になっていました。また当社の保有する土地にも限りがあり、有効活用を図るため、宅地造成・マンション分譲に加え、建物・施設を賃貸し収入を得る賃貸業にも力を入れるようになっていきました。
まず、桜ヶ丘・めじろ台に続く第三の大型分譲地として1968年に京王平山住宅地の造成に着手し、73年6月に第1期分譲を開始しました。
続いて、1971年に相模原市に淵野辺マンションを建設し、当社のマンション分譲事業が始まりました。その後、めじろ台駅前・北野駅前等にマンションを分譲し、いずれも好評のうちに完売しました。
1972年には、伊豆熱川に初のリゾートマンションである熱川マンションを建設、75年に分譲を開始しました。
一方、土地分譲は地方が中心となり、1973年に開発した京王新潟南住宅地の販売を76年から開始したほか、長崎市で京王三景台団地の開発を行い、81年から分譲を開始しました。
これらに並行して、高架下を中心に社有地の有効活用も開始しました。1969年に聖蹟桜ヶ丘駅高架下に商店街をオープンさせたのに続き、八幡山・高井戸・高尾・京王多摩センター・笹塚と続々と開業しました。1971年には、京王初台ビルが初台の駅ビルとして竣工したほか、76年には高幡不動駅前に、京王高幡ビルをオープンさせました。

  • 平山住宅地

大規模プロジェクトの完成

賃貸業の拡充の一環として、ホテルやショッピングセンターなど大規模プロジェクトにも着手しました。
1980年11月に、京王プラザホテル南館がオープンしました。これは、71年6月にオープンした京王プラザホテルが新宿新都心の発展に伴い、稼働率がアップしたほか、その後も国際会議・各種催し物の多様化などの需要が見込まれたためです。
1982年5月には、京王プラザホテル札幌がオープンしました。これは、札幌駅から徒歩3分の位置にあり、リゾート客だけでなく、札幌市民の多様なニーズにも応えられる北海道最大の近代的都市ホテルとして計画されたものです。
一方、聖蹟桜ヶ丘駅周辺にはかなりまとまった社有地があり、また多摩ニュータウンにも近く沿線に大学や各種学校が進出していたため、1984年2月から聖蹟桜ヶ丘駅周辺総合開発に着手しました。1986年3月にA・B館が竣工し、ショッピングセンターのグランドオープンを迎えました。引き続き、京王アートマンのオープンなどを実施し、1988年3月に開発が完了しました。

  • 京王プラザホテル札幌のオープン1982年5月
  • 京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンターがグランドオープン1986年3月