第1部 戦後復興から事業の多角化へ 1948~1969

第1章 京王帝都電鉄の設立

東京急行電鉄は、1948年6月1日、東京急行電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄、東横百貨店、そして京王帝都電鉄の5社に分割されました。
設立当時、京王は資本金5,000万円、従業員1,944人で、分割された他の鉄道会社に比較して最も規模が小さい会社でした。

鉄道の復興

設立当時、当社の営業キロは51.9キロ、車両数は京王線70両、井の頭線37両でしたが、多くは戦前のもので戦災応急復旧車も含まれていました。

また、朝夕の混雑率は最高250~300%という記録もあり、首都交通を担う当社にとって、輸送力増強と施設の復旧は急務でした。

当時、京王線は13メートル級車両を2両編成で運行しているに過ぎず、宅地化が都心から西へと進むなか、輸送力増強を求める声は日々に強くなりました

そこで、画期的な16メートル級車両による3両編成運転を計画しましたが、当時は3両編成化といっても大変な難事業で、被災・荒廃した施設の新増改築や用地取得などに多くの費用と時間を要しました。

このようななか、1949年9月、新宿~調布間に戦時中に途絶えていた急行運転が復活しました。

1950年3月には新宿~京王多摩川間、新宿~府中間に3両編成の急行を運転しましたが、これは13メートル級車両によるものでした。その後、難工事となった西参道のSカーブの修正をはじめとする施設・設備の改良工事が完了し、1951年4月、待望の新型16メートル級車両・2600系による3両編成運転が新宿~千歳烏山間で開始され、さらに全線3両運転化に向け、工事を進めていきました。

輸送力を増強する鉄道

新宿駅から320メートルほどの区間は、甲州街道上の併用軌道となっており、運転保安上のネックとなっていました。1953年、甲州街道の拡張に合わせて緑地帯を設けて道路交通と分離・移設する工事を行い、保安度は幾分向上しましたが、甲州街道を横断する踏切が残り、依然として徐行運転を余儀なくされていました。

1955年4月、東府中~府中競馬正門前間の競馬場線が開通しました。そして10月にはダイヤ改正を実施し、新宿~八王子間で競合する国鉄中央線に比較して所要時分が1分短くなりました。

当時、京王線の利用者は毎年8%強の割合で増加しており、3両編成運転ではすぐに限界に達するとみられていました。

これにより、まず1957年1月にラッシュ時の新宿~高幡不動間の急行・準急の4両編成運転を実施しました。そして、各施設の工事の竣工と車両の増備を待って、同年11月にラッシュ時の急行増発と全編成の4両編成化、60年10月には、13メートル級車両による5両編成運転を実施しました。

一方、井の頭線についても早急な改善が求められていました。東急時代には、戦災で全31両のうち24両が被災したため旧東急各線からの応援車でまかなっており、東急から分離後も戦災応急復旧車が17両も使用されていました。本格的な立て直しは、1952年からで、明大前付近の線路改修工事、重軌条化、電力供給力強化などを実施し、同年5月に渋谷~吉祥寺間の所要時分は31分から27分に短縮されました。また、国鉄標準機器を使用した新型1800型車両が8両入線しました。さらに、1954年には1800型を洗練・軽量化した1900型が13両入線し、輸送力は格段に向上しました。

バス事業の強化

京王帝都電鉄設立当時のバス事業は、中野・国分寺・八王子の3営業所、免許キロは153キロあったものの実際営業キロは37キロで、稼動できる車両はわずか45両、そのうち20両は代燃木炭車で、残るガソリン車は燃料不足と酷使で廃車寸前のありさまでした。

しかし、設立直後の1948年7月から休止路線の再開、路線の新設、営業所の開設を相次いで行い、翌49年12月までの間に再開した路線は57キロ、新設した路線は相互乗り入れを含め76キロに達し、購入した新車は55両に及びました。

当社は積極的にバス事業を強化しました。これは、将来のバス時代到来を予見したこと、また鉄道が復旧するまでの間、他のバス会社により鉄道が脅威にさらされないよう、バス事業により鉄道の営業圏を防衛するという理由から、会社再建の柱を鉄道よりも復旧・改善に費用・時間を要しないバス事業に置いたのです。

まず車両の充実を図るために1949年4月、都内バス事業者で初めてディーゼルバスの本格的運行を開始しました。続いて民営バスの都心乗り入れが許可されたため、1949年10月に新橋~下高井戸間(新橋線)を都バスとの相互乗り入れにより開設しました。なお、この路線には、都内初のトレーラーバスを導入しています。

さらに、都区内・多摩地区とも路線網は発展を続け、1955年12月の営業規模は、新宿・中野・永福町・世田谷・東府中・八王子の6営業所、営業キロは約300キロ、車両数265両、従業員数は830人で鉄道部門の862人に匹敵するほどになりました。

また、1956年10月、新宿~河口湖・山中湖間136キロを走る長距離路線(急行バス・季節運行)を開設しました。これは当時関東では最長距離を走る路線でした。さらに、1958年12月には、新宿~昇仙峡間145キロの定期急行バスを開設しました。

一方、観光バス部門も急激な成長をみせ、1958年に代田橋に観光バス営業所を開設、60年には、観光バスが29両になりました。

  • 丸の内のビル街を走る路線バス
  • 新笹子トンネルを抜けて一路昇仙峡に向かう急行バス
    1959年7月

沿線の観光開発と不動産部門の発足

京王沿線に住宅・学校・事業所等の進出が続き、通勤・通学の足となる一方で、当社は旅客誘致対策として沿線観光資源の開発に努め、戦後まもなくハイキングコースの整備、平山城址公園の造園、東京朝顔園の開園などを実施しました。

続いて1955年、京王多摩川駅付近に京王遊園を開園、59年に京王遊園内にプールを開設しました。また1956年、同じく京王多摩川駅付近に東京菖蒲苑(のちの京王百花苑)を開園しました。さらに、1957年には、梅の名所として知られる百草園を譲り受け、現在まで整備・管理を行っています。

1958年、七生村(いまの日野市)と協力して誘致した東京都多摩動物公園が開園し、沿線各地からのバス路線を整備しました。そして、1964年には多摩動物公園線(いまの動物園線)が開通し、利便性が著しく向上しています。

一方、当社では、戦前の京王電気軌道時代から沿線の土地開発・住宅地造成を手がけており、戦後1950年には土地・建物の売買仲介を再開しました。1955年、沿線開発を強力に推進するため、田園都市建設部をスタートさせ、57年に「つつじヶ丘住宅地」の分譲を開始、そのとき最寄りの金子駅をつつじヶ丘駅と改称しています。

  • 1955年に開園した京王遊園

第2章 都市型私鉄への事業拡大

1956年「神武景気」を迎え、わが国産業界は活発な設備投資がみられました。当社においても1950年代後半は、巨額投資に伴う金利負担に悩みながらも、鉄道・バスを補完する目的で、観光資源と住宅地を積極的に開発し、経営基盤の強化を図りました。

成長への長期計画

東京が都心から西へと大きく発展していくなか、当社は次なる飛躍を目指し、新たなるスタートを切りました。1964年に開催された東京オリンピックは日本の復興を象徴するイベントであり、これにあわせて高速道路網や新幹線などの整備が進められました。

当社でも京王線併用軌道の地下化、京王線の昇圧、京王ビル(京王百貨店)の建設を進めていましたが、資金調達には大変苦労しました。すでに、1959年に資本金を20億円に増資していましたが、これらの投資による借入金の金利負担が重荷となっていました。しかしその後の設備投資に備えるため増資を繰り返し、1968年には資本金が100億円になりました。

イメージチェンジした鉄道

1960年6月に東京都が新宿副都心計画を発表すると、新宿を拠点とする企業に開発の機運が芽生えました。当社も、新宿駅付近の併用軌道地下化に合わせ、新宿駅の駅施設を地下化し、地上に駅ビルを建設するという大改良工事を1961年5月に開始しました。1962年、京王線は最高時速を75キロから85キロにアップし、新宿~東八王子間の急行の所要時分を53分から50分に短縮しました。

一方、井の頭線では、1960年4月に渋谷駅の駅ビルが完成し、翌61年11月には4両編成運転を開始しました。さらに1962年12月には、オールステンレスカー・3000系が入線しました。この車両は、正面にはFRP(強化プラスティック)を使用し、そのFRPの塗色を編成ごとに変える(レインボーカラー)といった画期的な車両で、昭和38年度鉄道友の会ローレル賞を受賞するなど、同線のイメージアップに大きく貫献しました。

さて、1963~64年は、京王線にとっては大きな転換期でした。まず1963年4月には、新宿駅と新宿駅付近の線路が地下化され、京王線の運転保安上のネックであった併用軌道が廃止されました。同時に、新宿~高幡不動間で17メートル級車両による5両編成運転も開始され、輸送力がアップしました。

続いて8月には、輸送力アップのために進められていた昇圧工事が完成し、架線電圧が600ボルトから1500ボルトになりました。

昇圧と同時に、新型の5000系が登揚しました。それまでグリーン一色であった同線にあって、アイボリーにエンジの帯の斬新な塗色をまとったこの新型車両は、そのスピード感あふれるデザインとともに京王線のイメージを大いにアップさせました。この車両は、3000系に続き、昭和39年度鉄道友の会ローレル賞を受賞しています。

さらに、10月には、この5000系を優先活用する形で、新宿~東八王子間を最高時速90キロ・40分で結ぶ特急の運転を開始し、少し遅れて6両編成運転も開始しました。

12月には東八王子駅を移設、京王八王子駅と改称しました。

翌1964年に入ると、4月に、高幡不動~多摩動物公園間の多摩動物公園線(いまの動物園線)が開通し、同園へのアクセスの利便性が飛躍的に向上しました。また同じ4月には中河原~聖蹟桜ヶ丘駅間の多摩川鉄橋が複線化され、さらに6月には新宿駅付近の地下区間を初台駅の先まで延長し、運行上の難所である西参道のSカーブや環状六号線との平面交差が解消され、スピードアップと保安度向上が図られました。

これらの施策により10月には最高速度が95キロに向上し、特急は新宿~京王八王子間37.9キロを37分で結ぶようになり、念願の「1キロ1分」が実現されました。

そして、1967年10月、北野~高尾山口間の高尾線が開通しました。同線は高尾山への観光路線としての性格を持つ一方で、京王めじろ台住宅地の分譲など地域発展に寄与する面も持ちあわせていました。

なお、同年5月に京王線の全ての特急が6両編成となっていましたが、利用者の増加に対応するため、翌68年11月に、急行系列車の一部を7両編成化しました。これに先立って、車内における快適性の向上と旅客誘致を目的に、関東私鉄の通勤車両として初めての冷房車を導入しています。

  • 地下化直前の新宿駅 1961年
  • ローレル賞の連続受賞
  • 1963年10月、新宿~東八王子間を40分で結ぶ特急の運転を開始しました。(東八王子駅)
  • 高尾線の開通前日に行われたテープカット(北野駅)

バス部門の成長

バス事業は、設立直後の鉄道を支え、再建の大黒柱でした。1950年代後半には、路線バス各社はその営業エリアがほとんど確定化していましたが、当社は沿線人口が増大する多摩地区を中心に発展していました。

1956年に、バスの通勤・通学定期券の発売を開始しました。1960年には、労働力不足の解消と人件費の抑制を目的に、都内初のワンマンカーを導入しました。

しかし、このころから都区内を中心にマイカーが急増し始め、交通事情の悪化により、バスの運行効率が低下することで運行経費が増加し始めていました。反面、多摩地区は1963年の公団団地建設などで沿線人口が増大し、着実に収入を伸ばしていました。

一方、観光バスについては、1961年に始まった観光バスブームに乗って好調な業績で推移していました。1963年には観光バス車両数が51両にものぼっており、車両そのものもデラックス化・高性能化されていきました。

  • スーパーデラックスバス

不動産業が大きな柱に

当社の宅地開発の歴史でまず挙げられるのが、不動産部門の長期5ヵ年計画の軸となった桜ヶ丘住宅地の造成・販売事業です。この開発については、当社が開発の殆どを自らの手で行ったのが特徴で、ここで培った住宅地造成のノウハウがのちの開発に活かされました。1960年に工事がスタートし、2年後の62年4月に第1期分譲を始め、71年までに約1,300区画の販売を完了しました。

この事業の成功は、不動産部門の事業目的達成であると同時に、当社の全事業計画の推進を支えた大きな柱ともなりました。

また、高尾線が開通した1967年10月、同時にめじろ台住宅地の第1期分譲を開始しました。売り出しの573区画はあっという間に売り切れてしまい、続いて70年までに第2期~第5期までの販売を行いましたが、いずれも即日完売と大好評でした。

一方、1968年6月、京王富士スバル高原別荘地の開発に着手、リゾート開発にも進出しました。

  • 桜ヶ丘住宅地の造成

京王グループの萌芽

当社は京王沿線を中心とした京王圏に多くの資本を投下し、暮らしに欠かせぬサービスを提供してきました。これらの事業を担ったのが当社の関連会社です。

1962年当時、当社の関連会社は22社を数え、業種はスーパーからタクシー業、住宅建設関係、レジャー関係と多岐にわたり、中でも、1964年11月に新宿駅地上に開業した京王百貨店、71年6月にオープンした京王プラザホテルは、京王の名を大いにアピールしました。

  • 京王プラザホテルオープン当時、ビルの周りには何もありませんでした。