第3部 企業体質の抜本的改善とグループの再編成 1986~2002

第1章 凝集力を高めて強固な企業体質へ

1986年のG5プラザ会議で円高推進が合意されると、わが国は経済大国への道を駆け上がり、円高時代を迎えました。この時、土地は天井知らずに高騰し、「土地転がし」「地上げ」といった言葉も生まれました。
しかし、1990年の円・株・債券のトリプル安をきっかけに低成長時代に突入し、バブル経済が崩壊しました。

グループの体質強化

1986年以降、好景気を背景に京王グループの企業体質強化、特に財務体質の強化に取り組みました。
まず、グループの凝集力を高めることを目的に、1987年1月に、グループ会社の役員に定年制を施行し若返りを図ったほか、同年7月には当社においても役員定年制に踏み切りました。次に、グループ会社間で同種の事業に複数の企業が参入・競合するといった無駄をなくすため業種の再編を実施しました。
また、財務体質の改善対策で最大の懸案事項となっていた、固定資産の償却方式の変更(定額法から定率法に)を、1987~90年にかけて実施し、将来の負担を軽減させました。さらに、1985年には、金利の安い海外からの資金調達を目的に、当社初の外債を発行しました。
なお、1988年3月に、聖蹟桜ヶ丘に新本社ビルが竣工し、新宿3丁目から移転しています。

  • 竣工直前の新本社ビル

リフレッシング京王の展開

1990年に相模原線が橋本まで全通したのを機に、当社はリフレッシング京王をスローガンに、グループを挙げて事業の再編成に取り組みました。
まず、シンボルマークとロゴタイプを一体化した社章(ロゴマーク)を制定し、京王ブルーと京王レッドのコーポレートカラーを制定しました。この社章は、当社の新たな社紋として、電車・バスに表示されるなど京王グループ全てのコミュニケーションメディアに使用されています。
次に、営業系・技術系ともに制服を刷新し、同時に駅名表示も変更し、ゾーンカラーを導入するなど、新しくなった京王をアピールしました。
さらに、路線バスの塗色もアイボリーに京王ブルーと京王レッドのストライプを施した斬新なものに変更したほか、京王自動車でもタクシーの塗色を同様に変更するなど、グループ全体のカラーとして強調しました。
このほか、週休二日制の実施など福利厚生の充実、京王資料館の建設、女性駅係員の登場、情報の有効活用を目指したコンピュータシステムへの転換などを実現しました。

  • ロゴマークをつけた電車

第2章 首都圏の大動脈へ

鉄道事業においては、輸送力の増強と合わせて安全性・快適性・正確性のさらなる向上が図られました。

連続立体交差事業の推進

連続立体交差事業とは、2ヵ所以上の都市計画道路と鉄道を連続的に立体化することで、踏切を解消し、道路交通の円滑化や運転保安度の向上を図ると共に、周辺の街づくりにも大きく貢献するもので、都道府県等が主体となって「ガソリン税・自動車重量税」を財源として行われる事業です。当社では、1983年に初台~笹塚間で完成したのに続き、この時期には府中駅付近と長沼・北野駅付近で工事が進められていました。
府中駅付近の連続立体交差事業については、前後1.6キロを高架化して踏切8ヵ所を解消すると共に、府中駅を上下待避線を持つ4線ホームに改良するもので、1981年10月に着工しました。同駅は用地が少ないため、過去のホーム延伸の際にやむを得ず下り待避線を撤去した経緯もあり、4線化は念願でもありました。1991年4月に高架化され、93年3月に駅舎が完成したことで、工事は竣工をみました。
長沼・北野駅付近の連続立体交差事業については、国道16号線バイパス事業に基づき、両駅付近3.2キロを高架化して踏切6カ所を解消すると共に、北野駅を3線から上下待避線を持つ4線ホームに改良するもので、1983年10月に着工しました。この工事では、高尾線の分岐する北野駅で線路切り替えを5回も繰り返しましたが、1993年春に竣工しました。

  • 工事完成後の北野駅

相模原線の全通

相模原線京王多摩センター~橋本間の延伸工事は、1982年12月に着手し、一気に開業を目指しました。しかし、橋本付近で用地取得が難航し、開業は遅れを余儀なくされました。ところが、入居が進む多摩ニュータウン西部では、その足の確保は急務となっていました。そこで、1988年5月に工事が進んでいた京王多摩センター~南大沢間を暫定開業し、同時に周辺のバス路線も再編・整備しました。
これに遅れること1年10ヶ月の1990年3月に、南大沢~橋本間が開業し、相模原線(調布~橋本間22.6キロ)が全通しました。これにより橋本は、JR横浜線と相模線のジャンクションから都心への玄関口として発展し始めることになります。
また、1991年9月には、橋本~本八幡間に快速が直通運転を開始し、都営新宿線を介して神奈川県北部と千葉県とを結ぶ大動脈となっています。なお、同年4月に、南大沢~橋本間に多摩境駅が開業しています。
そして、1992年5月に、新宿~橋本間38.1キロを36分で結ぶ特急が誕生しました。これは相模原線が京王線と並ぶ幹線と位置づけられる存在に成長したことを象徴する出来事でした。
一方では、相模原線特急運転開始直前の1992年3月に、新型8000系車両が入線しました。コーポレートカラーの京王ブルーと京王レッドの帯が施され、京王の新しいイメージをPRしました。また当社初のVVVF制御装置を搭載、急行系列車を中心に運行を開始しました。ちなみにこの車両は、同年の通商産業省グッドデザイン商品に選定されました。この車両の増備により、1992年12月に全車両が冷房化された一方で、96年11月には当社のイメージアップに貢献してきた5000系車両が営業運転を終了しています。
このほか、ホーム上に冷暖房完備の待合室が順次設置されているほか、自動改札化も橋本駅を皮切りに順次進められました。

  • 相模原線が全通し、神奈川県北部と都心が直結されました
  • 1992年に登場した8000系は、その年Gマーク商品に選定されました。

特定都市鉄道整備事業の推進

大都市圏の鉄道では朝間ラッシュの混雑が激しく、輸送力増強は最重要課題です。しかし、これには長い工事期間と莫大な資金を必要とし、借入金による金利負担が企業経営に大きな影響を及ぼします。
そこで、1986年7月、運輸省は「10年間にわたり通常の運賃に上乗せし、その上乗せ分を積み立てて工事費の一部に充当し、工事終了後に10年間にわたって均等に取り崩してお客さまに還元する」という制度を制定しました。この制度を「特定都市鉄道整備積立金制度」といい、この制度を用いて行う工事を「特定都市鉄道整備事業計画」といいます。
当社では、10年間で完了可能であり、かつ少ない投資で最大の効果を得ることを前提に、京王線の普通列車の10両編成化と井の頭線の車両大型化を選択しました。そして、予定通り10年の期限内に事業を完了することが出来ました。その経緯は以下の通りです。
1987年12月に、京王線長編成化工事と井の頭線車両大型化工事が「特定都市鉄道整備事業計画」の認定を受け、翌年の運賃改定時から準備金の上乗せを開始しました。
京王線の長編成化とは、京王八王子駅を含む21駅のホームを延伸し、全駅に10両編成を停車可能にし、朝間ラッシュ1時間に新宿駅に到着する30本全ての列車を10両編成化する工事です。一方、井の頭線の車両大型化とは、18.5メートル・3扉車両で統一されていた同線に、大型20メートル・4扉車両を導入すると共に、朝間ラッシュ1時間に渋谷駅に到着する列車を28本から30本に増発し、合わせて渋谷駅を含む11駅でホーム延伸と駅改良工事を実施するものです。
この事業の皮切りとして、8両編成対応であった京王八王子駅の地下化工事が1986年4月に開始されました。3年後の1989年に、10両編成対応となった地下ホームの使用を開始、10両編成列車の高幡不動駅での分割・併合の手間が解消されました。なお、1991年に急行系列車の混雑緩和策として、6000系の5扉車両が導入されました。
続いて、普通列車の10両編成化工事を開始、代田橋駅と上北沢駅で駅舎の地下化、下高井戸駅で橋上駅舎化を伴う大掛かりな工事も順調に進みました。そして、工事進捗に応じて、1993年3月に新宿~つつじヶ丘間で、翌94年3月に新宿~橋本間で、普通列車の10両編成化を実施し、96年3月には全線で10両編成運転が可能になりました。1997年12月に仙川駅の改良工事が竣工し、「京王線長編成化工事」が完了しました。
一方、井の頭線についても車両の大型化に伴う工事が開始されましたが、特に困難だったのが神泉駅と渋谷駅でした。神泉駅については、一部がトンネルに覆われホームが3両編成分しかなかったため、トンネルを削ってホームを延伸し、1995年9月から使用を開始しました。渋谷駅については、抜本的な改良が必要となり、隣接する東急バス専用道・営団銀座線の車庫線を含めて総合的に土地利用をすることになりました。1994年から本格工事に着手し、96年1月に大型5両編成対応となりました。
この時、投入された大型車両が、井の頭線では33年ぶりの新型車となる20メートル4扉の1000系です。井の頭線伝統のレインボーカラーを採り入れたほか、京王線8000系と同様VVVF制御を採用しました。なお、これに合わせて、在来の3000系の大半について、リフォーム工事を実施しています。
その後、1996年7月に渋谷駅に西口を開設、そして97年12月には駅施設全体が完成し、井の頭線のターミナルにふさわしい装いとなりました。これに合わせてダイヤ改正を実施し、朝間ラッシュ1時間あたりの渋谷駅到着列車を28本から30本に増発、輸送力増強目標を達成し、「井の頭線車両大型化工事」を全面完了しました。
こうして1987年に始まった大事業は、97年12月に10年間の期限内に完了しました。これにより、鉄道大手では戦後初となる運賃引き下げを実施し、大きな社会的反響を呼びました。
これは、引き下げ率9.1%の運賃改定であり、工事費の一部に充てるため通常運賃に上乗せしてきた分6.0%と、それを積立ててきたものを10年間かけて取り崩して還元する分3.1%を合わせたものです。また、この制度による運賃引き下げをお客さま等にわかりやすく理解していただくために、実際には渋谷駅改良エ事完成等に伴う資本費の負担増(運賃値上げ要素)1.6%があったものの、これについては経営努力で補うことにしました。

  • 特定都市鉄道整備積立金制度による運賃改定のしくみ
  • 井の頭線初の20メートル・4扉の1000系は、1996年1月から活動を開始しました。

第3章 バス事業の生き残りをかけて

路線バス事業は、交通渋滞による定時性の低下や・運賃値上げによるお客さまの逸走と、人件費等経費の増加による収支の悪化に苦しんでいました。この収支改善のため、新たな需要喚起による収入増と、より一層の効率化による経費節減に取り組みました。

乗りやすいバスづくり

逸走したお客さまを取り戻すため、「乗りやすいバスづくり」を掲げて、対策に一層取り組むことになりました。
車両設備の向上については、1976年以来進めていた車両の冷房化を、91年に完了しました。
バス離れの大きな原因のひとつである定時性の低下に対する対策として、「バス運行管理システム」を1988年から89年にかけて全営業所の全車両に導入しました。これは、営業所と出庫車両とを無線で結び、車両の現在位置や停留所の通過時刻をコンピュータで分析し、区間別の所要時分・終着地への到着予定時刻等をモニターに表示し運行状況を把握、適切な運行手配に役立てるものです。
1980年代になると、コンピュータの台頭とビジネスの国際化につれて、夜間の交通手段の確保が求められるようになりました。当社では1980年から深夜バスを運行していましたが、終電後に新宿と郊外を直結する深夜急行バスの運行を89年12月から実施しました。
京王八王子駅が地下化された1989年12月、西側部分の出入口を整備し、東京西部の高速バスの拠点として京王八王子高速バスターミナルを新設しました。この時、沼津までの高速バスが運行を開始したほか(現在は廃止)、西東京バスが、金沢・京都・大阪への高速バスを運行しています。また、同年9月には、路線バスの京王八王子バスターミナルも使用開始、駅前広場の車両の輻輳が解消されました。
1992年4月に、駅前の一等地を有効活用するため、それまでJR八王子駅前にあった八王子営業所を市内長沼町に移転しました。これと同時に、多摩ニュータウン西部地区の輸送に対処するため、南大沢に八王子営業所南大沢支所を開所しました。
「分かりやすく、乗りやすく、安全で気持ち良いバス」づくりを推進するなかで、お年寄りや身体の不自由なお客さまへの対応策として、1995年からワンステップの車いす用スロープ板付き超低床バスを導入しています。さらに、1998年には、ステップをなくしたノンステップバスを投入、車いす用スロープ板のほか、環境対策を考慮してアイドリングストップ機能も備え付けられています。
一方、乗りやすさの向上を目指し、1994年に都区内地区・横浜市・川崎市を含む地域にバス共通カードが登揚しました。当社でも翌95年1月に都区内地区に、96年11月までに多摩地区の全車両に導入を完了しました。

  • バス運行管理システム全体図
  • 京王八王子駅ビル1階に開設された京王八王子駅バスターミナル
  • ノンステップバスの登場

高速バス路線の拡充

1988年に長野自動車道が松本まで開業し、翌89年4月から中央高速バス「松本線」(新宿~松本間)の運行を開始しました。また、1992年4月には新宿~長野間を結ぶ「長野線」の運行を開始しました。さらに、1998年3月には、新宿~飛騨高山間を結ぶ「飛騨高山線」の運行を開始しました。これは、冬季通行止めとなっていた長野・岐阜県境に安房トンネルが開通したのを受けての開設で、東京からの直通交通手段の少ない飛騨高山地区への貴重な足として活躍しています。

一方、宿泊費が不要で運賃もJRや航空機に比べて割安というメリットから、夜行高速バスの人気が高まり、当社でも長距離夜行高速バスの運行を開始しました。1988年4月の瀬戸大橋開通を受けて、翌89年10月に当社初の夜行高速バスとして「高松線」(新宿~高松間)が開業しました。その後、同年12月には「大阪線」(新宿~大阪間)、翌90年5月には「松山線」(新宿~松山間)、そして同年10月には日本最長距離の路線バスでもある「福岡線」(新宿~福岡間)と、次々に路線を開設しました。なお、現在、「高松線」「大阪線」「松山線」については西東京バスが当社の運行を引き継ぐかたちで営業し、「福岡線」についても当社便は廃止しました。

  • 長野・岐阜県境の安房トンネルを抜けて高山へと向かう高速バス「飛騨高山線」

バス事業の構造改革

当社路線バスの輸送人員は、1995年には、ピーク時である1972年に比較して25%も減少し、これによる減収分を運賃値上げで補い、これがまたお客さまの逸走を招くという悪循環を招いていました。さらに、都営12号線や多摩都市モノレールの開業など、収支状況は一層厳しくなることが予想されたため、バス事業の構造改革に取り組みました。
まず、1988年に従業員1人当たりの生産性の向上策として、ダイヤ編成基準の改定を実施し、ワンマン手当てなどの削減を図りました。
また、貸切バス事業については、1989年の規制緩和以降、事業者間の競争がさらに厳しいものとなったため、大幅縮小を実施しました。これにより、1996年に、貸切専属要員はいなくなり、車両数も12両に減車しました。
そして、経費の大部分を占める人件費の削減を図るため、バス事業の収入に見合った賃金・労働条件を再構築することになりました。そこで、新会社を設立して毎年の当社バス乗務員の退職者数に合わせて路線を新会社に移し、新会社が新しい賃金・労働条件で採用した従業員により運行していくという、段階的分社化方式を採用しました。これを受けて、1997年に、新会社「京王バス株式会社」を設立し、98年7月時点、当社より移管された10路線を運行しています。なお、京王バスでは徹底した接遇と運行回数増等のサービスを提供しています。
なお、車両については、減少傾向にある輸送人員に見合うように、運行経費の安い、車いす用スロープ板付き超低床小型バスを開発、1996年10月から営業運転を開始しています。
これらバス事業の構造改革の取り組みによる経費節減に努めた結果、1997年12月、都区内民営バス事業者が運賃値上げに踏み切った際、当社と京王バスだけは、運賃を据え置きました。
また、2001年12月には「南大沢京王バス株式会社」(現 京王バス株式会社)、2003年5月には「京王バス中央株式会社」(現 京王バス株式会社)を設立し、南大沢地区、府中地区の路線をそれぞれ移管しました。一方、厳しい事業環境下でバスが地域のお客さまの足としての役割を引き続き果たすため、当社のバス部門を一括分社(営業譲渡)することとし、2002年2月に「京王電鉄バス株式会社」を設立し、同年8月から営業を開始しました。

  • 1997年10月から運行を開始した京王バス

第4章 社有地の有効活用

1985年以降、賃貸業を全社事業の収益の柱とするため、社有地の賃貸資産への置き換えを急速に進めました。

バブル経済下の開発事業

土地価格や株価が高騰し、誰もが先を競って株や土地投機に走った時代、当社はこれらには一切手を出さず、むしろ、この時期に不採算土地の処分を進めました。

一方、賃貸資産の拡充策として最初に着目したのが、一等地の新宿3丁目にあった旧本社ビルの跡地の再開発で、1989年8月に賃貸事務所ビルとして竣工しました。

1990年4月に、京王多摩センタービルが完成し、京王プラザホテル多摩がオープンしました。当時、近隣には大学・短大の開設が相次ぎ、教育関連企業も進出しつつあったため、ホテル建設に対する地元の要望が強くありました。

このほか、この時期には沿線の駅を中心に事務所ビルや高架下店舗の建設が活発化しました。

平成の大型プロジェクト

1994年9月、八王子市内に2つの大きなビルが相次いで竣工しました。
ひとつは、京王プラザホテル八王子で、JR八王子駅前にあったバス八王子営業所跡地に建設されました。当時、人口47万人の業務核都市であるにもかかわらず、八王子市内にはこれにふさわしい都市ホテルがないなどの理由からホテルを建設することになりました。
もうひとつは、京王八王子駅ビルで、地下化された京王八王子駅の上に建てられました。駅の機能性・利便性の向上を図り、また駅直上という立地を活かすため、商業施設として建設することになり、カジュアル衣料・生活雑貨・大型書店・レストランなどで構成された新業態の専門大店としてオープンしました。
一方、府中においては、1996年3月に駅ビルと東モールからなる京王府中ショッピングセンターがオープン、京王アートマン・京王ストア・啓文堂書店などが出店しています。
同じ1996年3月に、京王プラザホテル多摩に西館がオープンしました。それまでは、客室・レストラン主体に営業していましたが、近隣への事務所の進出・結婚適齢層の増加により、結婚式場や宴会場を要望する声が多くなったのを受けてオープンしたものです。
都区内においては、同じ1996年8月、初台に東京オペラシティビルの主要部分である東京オペラシティタワーがオープンしました。これは、当社観光バスセンター跡地利用について検討し、民間地権者9社が共同でビルを建設することになり、建設に着手したものです。翌1997年9月にはコンサートホールが完成し、京王沿線にも世界に誇れる芸術の殿堂がオープンしました。
また、渋谷については、当社・東急・営団の3社共同プロジェクトとして、駅直上部分の商業関連施設「渋谷マークシティ」の建設に着手、2000年4月に完成しています。
ところで、高尾線の南側地区は、同線開業当時から当社も土地を取得していましたが、1985年に八王子ニュータウンとして都市計画決定を受け、88年に南八王子土地区画整理事業が認可され、造成・開発が進められました。そして1996年10月以降、当社が換地を受けた分は、「八王子みなみ野シティ 京王四季の街」という愛称で分譲を実施しています。

  • 1994年9月にオープンした京王プラザホテル八王子

第5章 地域に愛される企業に

1913年、笹塚~調布間開通に端を発した京王線は、1998年に開業85周年を迎えました。この間、関東大震災・戦災などで一時的に運行を休止したほかは、雨・風はもちろん、雪の日にも安全・正確な運行に努めてきました。
時代に流されず、鉄道会社としての本業を全うしてきた企業姿勢が、地域の皆様に愛され信頼される原点と考えています。

安全で信頼できる企業

1998年10月、鉄道部門は16年間責任事故がなく、運転保安業務に優秀な成績を収めたとして、関東運輸局から表彰されました。安全面での信頼は、ひとえに鉄道だけでなく、京王グループの信頼へとつながっています。
1995年1月の阪神・淡路大震災の経験を踏まえ、当社ではいち早く鉄道構築物の補強に取りかかりました。また、新宿駅の京王ビル(京王百貨店)の耐震補強工事が1998年7月に完了、安全なビルの一つとなりました。
また、運行確保に向けて怠らない日頃の備えとして、営業線上の列車と運転司令・乗務区・検車区とを結ぶ列車無線を1954年に導入し、異常時に備えています。また、鉄道にとって大敵である雪害に対する取り組みとして、ポイントが凍結しないよう電気融雪器の設置、ヒーター入り架線の導入、パンタグラフへの着雪防止剤の塗布などを実施する他、積雪の可能性がある場合には本社・現業を問わず動員体制を敷いて対応しています。

愛される京王へ

「安全第一」を企業使命に長年邁進してきた当社は、「愛される京王」を目指し、1997年12月の戦後の大手私鉄では初となる運賃値下げによりお客さまに利益還元を実施したほか、新たな取り組みを開始しています。
まず、株主への還元策として、株主優待制度の拡充に努めているほか、1998年6月に、会社設立50周年を迎えることの記念配当(1株1円)と特別配当(1株50銭)を実施、特別配当については収益状況が許す限り今後も継続していく予定です。また、IR誌の発行・ポスター掲出などで抜群の財務体質をPRし、沿線個人株主づくりに力を注いでいます。
1993年には、グループ強調を目指す企業集団づくりのため、「今日もひとつ新しいこと」を合い言葉にグループ活性化運動がスタートしました。その大きな柱として、1994年から京王グループ感謝祭がスタートしました。以後毎年開催され、なかでも京王音楽祭は1997年から東京オペラシティコンサートホールで行われ、好評をもって迎えられています。
また、就業時間外や休日での案内サービスを目的に、1996年6月に「運賃・時刻ファクス案内サービス」を開始しました。さらに、細かいニーズに応えることや社会の情報網の充実を受け、1997年6月にインターネット上に京王ホームページを開設しました。
そして、1998年7月1日をもって、社名を「京王帝都電鉄」から「京王電鉄」に変更しました。これは、1989年11月に、社章「KEIO」を制定して以来8年が経過し、「京王」という呼称がより親しみが出てきたためです。
社名変更により、社員一同、気持ちを新たにこれまで以上に地域や社会のお役に立つよう、社業の発展に努めて参ります。

  • 東京オペラシティコンサートホールで開催される京王グループ主催の京王音楽祭 1997年